明治大学校歌のあゆみ
「白雲なびく」にはじまる明治大学校歌(児玉花外作詞 山田耕作作曲)は、一九二〇(大正九)年に制定された。この校歌は学生自らがその制定のため大いに奔走したエピソードがよく知られている。
この動きが本格化したのは、大学昇格を翌年に控えた一九一九年、当時学生スポーツの花形であった隅田川の端艇レースにおいて、明治大学が惨敗を喫したことがきっかけである。学生たちは惨敗の原因を、校歌もないためただ叫び声をあげるしかない、統制の取れない学生自身の応援に求め、翌年春に開かれた予科大会において「校歌制定」の決議を行ったのであった。
校歌制定実行委員となった予科学生の武田孟(のち商学部教授、学長、総長)、牛尾哲造、越智七五三吉は、学校当局を説得して校歌作成の許可を得た。作詞は当時予科教授だった笹川臨風の紹介により児玉花外が引受け、作曲は音楽に造詣が深かった牛尾が紹介状もなく単身山田耕作を訪ね、熱意を込めて懇請し引き受けてもらった。さらに歌詞に音楽が乗りやすいように、山田の依頼により西条八十が補作をした。
こうして一九ニ〇年10月に校歌は完成した。この年の端艇レースにおいては、学生たちは校歌を歌い、整然と母校を応援できたのである。ほどなく校歌は「街頭で最も多く歌はれゐる」( 『大東京案内』)までになり、今日までスポーツや大学の様々な行事の際に愛唱されている。
(明治大学史資料センター『明治大学の歴史』より一部抜粋)